はじめに|伊豆大島に「憲法」があった?
1946年。
第二次世界大戦が終わって、まだ半年も経っていないころ。
伊豆大島では、今ではほとんど知られていない出来事が起きていました。
それが、
「大島大誓言」
と呼ばれる文書の作成です。
現在では、
「大島憲法」
「幻の大島憲法」
などと呼ばれることもあります。
聞いたことがない方の方が多いと思います。
でも、この出来事は単なる島の珍しい歴史ではありません。
戦争が終わり、
日本の統治体制そのものが大きく揺れていた時代。
伊豆大島は突然、日本政府の行政から切り離されました。
そして、
「この先、自分たちの島はどうなるのか?」
という不安の中で、島民たちが自分たちの統治のあり方を考え始めたのです。
今回は、
なぜ伊豆大島に“憲法”のようなものが必要になったのか。
そこから、当時の島民が何を考え、どんな仕組みを作ろうとしたのか。
1946年の伊豆大島を深掘りしていきます。
まず結論|伊豆大島が「独立国」になったわけではない
この話をすると、
「伊豆大島って、一度日本から独立したの?」
と思う方もいるかもしれません。
結論からいうと、
正式な独立国家になったわけではありません。
1946年1月29日。
GHQは、SCAPIN-677と呼ばれる指令を出しました。
この指令によって、伊豆諸島を含む一部地域が、
日本政府が行政権を行使する範囲から一時的に除外されました。
大島町の公式小史でも、
1946年1月29日〜3月22日
の期間について、
「日本国から行政分離」
と記録されています。
ただし、
「日本の領土ではなくなった」
という意味ではありません。
あくまで、
日本政府による行政権の行使が一時的に及ばない状態
になったということです。
ここを誤解しないことが、今回の記事で最初に押さえておきたいポイントです。
1946年1月29日、突然「日本政府の行政外」へ
当時の島民にとって、この出来事は非常に大きなものでした。
今のように、
「行政区分が少し変更された」
という程度の話ではありません。
この先、
伊豆大島は日本へ戻るのか。
別の統治体制になるのか。
独自の自治が必要になるのか。
先のことがほとんど分からない状態でした。
しかもこれは、
戦争が終わってまだ数か月。
日本全体が混乱の中にあった時期です。
そんな中、
伊豆大島だけがさらに、
「日本政府の行政が直接及ばない」
という特殊な状況に置かれたわけです。

その期間は「53日間」
行政分離が始まったのは、
1946年1月29日。
そして終わったのが、
1946年3月22日。
その期間は、
53日間。
長い歴史の中で見れば、ほんのわずかな時間です。
でも、その53日間に、
伊豆大島では、
「自分たちの島をどう治めるのか」
という大きな議論が始まりました。
そして最終的に、
大島大誓言
という文書へつながっていきます。
当時の伊豆大島は「大島町」ではなかった
ここで、今との違いも知っておきましょう。
現在の伊豆大島は、
大島町
ひとつです。
しかし1946年当時は、島全体が一つの町だったわけではありません。
当時の伊豆大島には、
岡田村
元村
泉津村
野増村
差木地村
波浮港村
という6つの村がありました。
人口は、およそ1万1,000人。
つまり、
「大島町が自治を考えた」
というより、
6つの村をどうまとめ、島全体としてどう生きていくか
を考える必要があったのです。
本土との行き来にも影響が出た
行政分離は、島の政治だけの話ではありませんでした。
人々の暮らしにも影響します。
当時の研究資料では、
本土から大島へ渡る際に、
目的や滞在期間を記した証明書や許可が必要になるなど、
本土との往来が大きく制限された
ことが紹介されています。
今なら東京から船に乗って、
数時間で伊豆大島へ来ることができます。
でも当時は、
同じ「日本国内」のような感覚で自由に行き来できる状況ではありませんでした。
通信。
交通。
経済。
暮らし。
さまざまな場面で、
「この島は、この先どうなるのか」
という不安が現実のものになっていきます。
「共和国を作ろう!」と全島が盛り上がっていたわけではない
この出来事について調べると、
「大島共和国」
という言葉を目にすることがあります。
確かに、
独自の自治体制や独立も視野に入れた動きがありました。
ただし、
島民全員が一枚岩になって「独立しよう!」と盛り上がっていたわけではありません。
ここは重要です。
研究資料では、
元村の一部有力者を中心に自治体制づくりが進んだ一方、
他地域では詳しい情報を知らなかった人もいたことが分かっています。
島の中でも考え方は一つではありませんでした。
ですから、
「伊豆大島が共和国として独立しようとした」
と一言で片づけてしまうと、少し話を単純化しすぎます。
実際には、
突然、日本政府の行政から切り離された中で、島をどう運営するかを模索した。
その中の選択肢として、
独自自治や独立構想が出てきた。
そう理解する方が正確です。

では、この先の島をどうする?
行政分離後、
島の指導者たちは、
「このままでは島全体をまとめる強い組織が必要になる」
と考え始めます。
1月末ごろには、
6村の村長らによる連合村長会が開かれました。
そして、
島民を一丸にできる組織が必要
という方向で議論が進みます。
さらに2月1日の合同協議会では、
民主的な自治
島民生活の安定
世界平和への寄与
といった考え方まで示されました。
ここが非常に面白いところです。
単に、
「日本から外れたから独立する」
という話ではありません。
戦争が終わったばかりの時代に、
「これからは、どういう島であるべきか」
まで考えようとしていたのです。
「自分たちで、自分たちの島を治める」
ここで、今回の記事の中心に近づいていきます。
島民たちが考えたのは、
単なる緊急避難的な行政組織ではありませんでした。
誰が島を治めるのか。
代表者はどう選ぶのか。
議会はどうするのか。
権力が暴走したらどう止めるのか。
島民は政治にどう関わるのか。
そうした、
島を運営する基本ルールそのもの
を考え始めます。
そして、
その考えを文章にしたものが、
後に「大島憲法」と呼ばれることになる、
「大島大誓言」
へとつながっていきます。
正式名称は「大島大誓言」
ここも整理しておきましょう。
現在では、
大島憲法
幻の大島憲法
伊豆大島暫定憲法
など、さまざまな呼ばれ方があります。
ただし残された資料で使われている名称は、
「大島大誓言」
です。
内容は、
本格的な「大島憲章」ができるまでの、
暫定的な統治ルール
として位置づけられていました。
つまり、
現在の日本国憲法のような完成された憲法と、
まったく同じ性格の文書ではありません。
ただ、
島の統治権。
議会。
執政。
住民投票。
など、
政治の基本構造まで定めていたため、
後世に、
「大島憲法」
と呼ばれるようになったのです。

大島大誓言は「3章23条」
大島大誓言に付された政治形態は、
3章23条
で構成されていました。
大きく分けると、
第1章
統治権
第2章
議会
第3章
執政
です。
つまり、
「みんな仲良く島を守ろう」
という理念だけを書いた文書ではありません。
誰が統治するのか。
議会はどう成り立つのか。
執政はどう選ばれるのか。
かなり具体的な政治制度まで考えられていました。
一方で、
司法についての規定は十分に整っておらず、
資料には後から、
「司法権が欠けている」
という趣旨の書き込みも残されています。
つまり、
まだ完成途中の制度だったことも分かります。
そして第1条に書かれていた言葉
ここで、
大島大誓言の中でも最も印象的な条文が登場します。
第1条。
そこには、
「大島ノ統治権ハ島民ニ在リ」
と書かれていました。
言い換えれば、
「大島を治める権利は、島民にある。」
ということです。
1946年3月。
日本国憲法は、まだ公布されていません。
戦前の大日本帝国憲法の時代から、
新しい日本の統治へ移っていく途中。
そんな時代に、
人口約1万1,000人の島で、
島民自身を統治の主体に置く考え方
が文章になっていたのです。
「日本国憲法より先だった」は本当?
時期だけを比べれば、
大島大誓言は1946年3月上旬ごろ。
日本国憲法の公布は、
1946年11月3日。
つまり、
大島大誓言の方が約8か月早いことになります。
ただし、
ここも誤解しないようにしたいポイントです。
当時の日本では、
政府。
政党。
民間の憲法研究者。
GHQ。
さまざまな立場から、新しい憲法案が同時並行で検討されていました。
ですから、
「日本で初めて民主的な憲法を作ったのが伊豆大島」
と単純に断定することはできません。
それでも、
日本の将来そのものがまだ定まっていない時期に、
小さな島で独自の統治ルールが作られた。
この事実そのものが、十分に興味深いと思います。
でも、大島大誓言が本当に面白いのはここから
「島民に統治権がある。」
それだけでもかなり印象的です。
しかし、大島大誓言には、
さらに興味深い仕組みがありました。
それが、
島民による直接投票。
議会を解散する。
執政府を信任しない。
そんな重要な判断に、
島民自身が直接関わる仕組みまで考えられていました。
さらに前文には、
島の立て直しだけではなく、
世界平和への思い
まで記されています。
しかも、
これを考えたのは、
専門の憲法学者たちではありません。
この島で暮らしていた人々でした。
なぜ、
戦争が終わったばかりの小さな島で、
ここまでの政治制度が考えられたのでしょうか。
そして、
この「大島憲法」は実際に使われたのでしょうか。
その答えには、
この物語の最後に訪れる、
1946年3月22日
という日が大きく関係しています。
「大島ノ統治権ハ島民ニ在リ」
大島大誓言のなかでも、特に象徴的なのが、
「大島ノ統治権ハ島民ニ在リ」
という考え方です。
簡単に言えば、
「この島を治める力の根本は、島民にある」
ということ。
戦前の日本を知る人々が、終戦直後という大きな転換期のなかで、自分たちの島の統治についてこうした原則を掲げたことは、大島大誓言を考えるうえで非常に重要なポイントです。
そして、その考え方は単なる理念だけではありませんでした。
有権者の「2割」が求めれば、住民投票へ
大島大誓言には、島民が政治に直接関わるための仕組みも盛り込まれていました。
特徴的なのが、有権者の2割以上から要求があった場合、重要な政治判断を直接投票に付すという仕組みです。
その対象として考えられていたのが、
議会の解散
執政府への不信任
などでした。
つまり、
代表者を選んだら、あとはすべて任せる。
それだけではありません。
必要であれば島民自身が政治判断に直接参加する。
現在の言葉でいえば、直接民主制的な仕組みまで考えられていたことになります。

「議会」と「執政」を分けて考えていた
大島大誓言は、
第1章「統治権」
第2章「議会」
第3章「執政」
という3章23条から構成されていました。
島民に統治権があることを基本としながら、議会を設け、さらに行政を担う執政の仕組みを置く。
単なる「島民みんなで話し合おう」という宣言ではなく、実際に島を運営することを想定した制度設計が考えられていたことが分かります。
一方で、現在の憲法のように統治機構がすべて整っていたわけではありません。
たとえば司法に関する規定は十分ではなかったとされています。
だからこそ、大島大誓言を現代国家の完成された憲法とまったく同じものとして見るのではなく、
非常事態のなかで島の自治を成立させるために作られた暫定的な統治ルール
として見ることが大切です。
もう一つ興味深い言葉。「万邦和平」
大島大誓言の前文には、
「万邦和平の一端を負荷し」
という言葉があります。
現代の言葉に近づければ、
世界の平和の一端を担う
という意味合いです。
1946年。
太平洋戦争が終わった翌年です。
日本全体が敗戦後の混乱のなかにあり、大島もまた、自分たちの行政が今後どうなるのか分からない状況に置かれていました。
そのなかで島の統治を考えた人々が、自分たちのことだけではなく「和平」という言葉を掲げた。
大島大誓言を見るとき、民主的な制度だけでなく、この時代背景も忘れてはいけません。
では、この「大島大誓言」は誰が作ったのか?
大島大誓言について調べると、
柳瀬善之助
高木久太郎
雨宮政次郎
など、当時の自治構想に関わった人物の名前が研究のなかで挙げられています。
ただし、
「この人物が一人で大島憲法を書いた」
と単純に説明するのは適切ではありません。
島内の有力者や地域の指導者たちが、行政分離という突然の事態に対応するなかで、島の自治体制について議論していったと考える方が実態に近いでしょう。
法律の専門家たちが作った憲法ではなかった
さらに興味深いのは、この構想が中央政府の官僚や憲法学者だけによって作られたものではなかったという点です。
そこにいたのは、
実際に伊豆大島で暮らしていた人々。
突然、日本政府による行政の先行きが不透明になった。
それでも島には生活があります。
食べなければならない。
働かなければならない。
港を動かさなければならない。
村を運営しなければならない。
だから、
「これから、この島をどうするのか。」
を島の側でも考えなければならなかった。
大島大誓言の面白さは、法律としての完成度だけではなく、こうした状況から生まれたところにもあります。
日本国憲法より約8か月早かった
現在の日本国憲法が公布されたのは1946年11月3日。
一方、大島大誓言がまとめられたのは1946年3月ごろとされています。
時系列だけを比べれば、大島大誓言の方が約8か月早い。
しかも、
「統治権は島民にある」
という考え方や、住民が政治に直接参加する仕組みまで盛り込まれていました。
ここだけを見ると、
「日本国憲法より先に民主的な憲法が伊豆大島にあった」
と言いたくなるかもしれません。
しかし、ここは慎重に考える必要があります。
「日本国憲法を真似した」わけでも、「日本初」と断定できるわけでもない
1946年前後の日本では、大島だけが新しい政治のあり方を考えていたわけではありません。
政府、政党、民間の研究者、GHQなど、さまざまな立場から憲法や統治制度について複数の案が検討されていました。
そのため、
大島大誓言=日本で最初の民主憲法
と単純に断定することはできません。
同じように、
日本国憲法を大島が真似した
あるいは、
日本国憲法が大島大誓言を真似した
とする確かな証拠も確認されていません。
大切なのは「どちらが先だったか」を競うことではないでしょう。
むしろ注目したいのは、
戦後日本の大きな転換期に、東京から約120km離れた伊豆大島でも、島民自身が新しい自治のあり方を考えていた。
という事実です。
しかし、その必要は突然なくなった。
大島大誓言がまとめられていた1946年3月。
伊豆大島の状況が、再び大きく動きます。
1946年3月22日。伊豆諸島の行政分離が解除
1946年3月22日。
GHQからSCAPIN-841が出されました。
これにより伊豆諸島は再び、日本政府が政治・行政上の管轄を行う地域へ戻ることになります。
1月29日の行政分離から数えると、
53日間。
島の将来がどうなるのか分からない状況は、ここで大きな転換を迎えました。
なぜ「53日間」だったのか
ここで重要なのは、
「伊豆大島が53日間、独立国家だった」わけではない
ということです。
1月29日のSCAPIN-677によって、日本政府が伊豆諸島に政治・行政上の権力を行使することが停止されました。
しかし、この指令そのものが伊豆大島を独立国家として承認したものではありません。
そして3月22日のSCAPIN-841によって、伊豆諸島は再び日本政府の政治・行政上の管轄へ戻りました。
この1月29日から3月22日までの期間が、一般に語られる53日間の行政分離です。

大島大誓言は実際に「憲法」として施行されたのか?
結論から言えば、
現在の国家憲法のような形で、本格的に施行・運用されたわけではありません。
大島大誓言は、本格的な「大島憲章」が整うまでの暫定的な統治ルールとして構想されていました。
ところが、その制度が本格的に動き始めるより先に、3月22日の行政分離解除を迎えます。
独自の統治体制を作る必要そのものがなくなったのです。
そのため、大島大誓言は後に、
「幻の大島憲法」
と呼ばれるようになります。
「大島共和国」は、本当にあった?
これも、この歴史を紹介するときによく生まれる誤解です。
結論は、
「大島共和国」という独立国家が正式に成立したわけではありません。
行政分離という特殊な状況のなかで、自治や独立を視野に入れた構想が一部で検討されたことは確かです。
しかし、
全島民が独立を望み、共和国の成立を宣言し、独立国家として53日間存在した
という歴史ではありません。
当時の島内にも地域差やさまざまな考え方がありました。
だからblissでは、この53日間を、
「幻の独立国」
として面白おかしく紹介するのではなく、
日本政府の行政から一時的に分離された非常事態のなかで、島民による自治体制を準備する動きが起きた53日間
として伝えたいと思います。
そして、大島大誓言は忘れられていった。
行政分離が解除されれば、島独自の統治制度を作る必要はなくなります。
戦後の復興が進み、人々の生活も変わっていきました。
大島大誓言も次第に歴史の奥へと埋もれていきます。
原資料は長い間、所在が分からない状態になっていました。
約半世紀後、「幻の憲法」が再び現れる
その存在が改めて注目されるようになったのは、戦後から約半世紀が経ってからでした。
1990年代、大島大誓言に関する資料が再び確認され、1997年ごろから全国的にもその存在が知られるようになります。
そこで初めて、多くの人が知ることになります。
戦争が終わった直後。
東京の南に浮かぶ伊豆大島で、
島民を統治の主体とする自治のルールが考えられていたことを。
80年後の伊豆大島から、この53日間を見る
現在、伊豆大島を旅行していても、この歴史を感じる場面はほとんどありません。
元町を歩いても。
岡田を歩いても。
波浮港を歩いても。
普通に景色を眺めているだけなら、
1946年、この島が日本政府の行政から一時的に切り離されていた
とは想像しないでしょう。
けれど、島の歴史を少し知ってから歩くと、景色の見え方が変わります。
現在は「伊豆大島」という一つの島ですが、当時は、
元村。
岡田村。
泉津村。
野増村。
差木地村。
波浮港村。
それぞれの地域に暮らす人々がいました。
その人たちが、戦争が終わった直後の混乱のなかで、
「もし自分たちでこの島を治めることになったら、どうするのか。」
を考えた時代があったのです。

この話の主役は「幻の共和国」ではない
「伊豆大島に憲法があった。」
それだけでも十分に興味を引く話です。
しかし、この歴史を深く知っていくと、本当に面白い部分はそこではないように思えてきます。
主役は、
共和国でも、独立でも、憲法という言葉でもない。
先の見えない状況のなかで、
島の暮らしをどう守るのか。
島を誰が治めるのか。
どんな社会を作るのか。
それを自分たちで考えようとした島民たちです。
大島大誓言が実際の憲法として長く運用されることはありませんでした。
行政分離も、わずか53日間で終わりました。
それでも、
「大島ノ統治権ハ島民ニ在リ」
という言葉は残りました。
約80年前。
伊豆大島には、自分たちの島の未来を、自分たちで考えようとした53日間があったのです。
まとめ|知ってから歩くと、伊豆大島はもっと面白い
伊豆大島には、火山があります。
黒い海岸があります。
裏砂漠があります。
椿があります。
波浮港があります。
そして、その景色のなかには、人が暮らしてきた歴史があります。
1946年の「大島大誓言」も、その一つです。
観光地として景色を見るだけでも、伊豆大島は十分に面白い島です。
でも、
「なぜ、この景色になったのか。」
「ここで、どんな人たちが暮らしてきたのか。」
を知ってから巡ると、同じ場所が少し違って見えてきます。
blissでは、レンタカーを貸すだけではなく、そんな**「知ってから巡る伊豆大島」**も伝えていきたいと思っています。
🚗 伊豆大島をもっと自由に楽しむなら、レンタカーがおすすめです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
伊豆大島は公共交通でも観光できますが、行きたい場所を自分のペースで巡るならレンタカーがあると旅の自由度がぐっと広がります。
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